日本銀行からマネーフォワードに、壮大なキャリアチェンジ
—神田さんはなぜ23年勤めた日銀からIT企業であるマネーフォワードへの転職を決心されたのでしょうか?
私が日銀に入行したのは1994年。日本でバブルが崩壊し、その後不良債権問題が起きて金融機関が次々に統合し、リスク管理を強化していくようになった時代でした。そして次に2008年にリーマンショックが起きて、また金融業界は守りの姿勢を強く固める必要を強いられたのです。
その当時、私は日銀で考査の仕事していました。それは日銀の取引先金融機関等の業務・財産の状況を調査して把握し、様々な金融機関と接点を持つことで、これ以上、銀行の財務状況が悪くならないようにする仕事でした。
当時の仕事を振り返っても、日銀はリーマンショック後の危機的な状況の中で世界的に大事な役割を果たしてきたと思っています。
しかしそういった守りの時期が長く続き、残念ですが金融機関側から新しい前向きな動きやチャレンジなどは、なかなか生まれてくる状況ではありませんでした。
日銀から金融庁のFintech部門に出向した後の変化
そういう意識で仕事をしていた2015年の夏に、日銀から金融庁に出向することになり、Fintech部門を担当することになったのです。その時にFintech協会の方々や企業の創業者、幹部の方々と交流や意見交換を通して、私がこれまで金融業界で仕事をしてきた人たちとの違いに圧倒されたのです。
彼らを具体的に紹介すると、株式会社インフキュリオン・グループ代表取締役で一般社団法人Fintech協会代表理事会長の丸山弘毅さん、株式会社マネーフォワード取締役の瀧俊雄さん、マネーツリー株式会社事業部長兼常務取締役・共同創業者のマーク・マグダットさん、フィンテック協会代表理事のナタリー・志織・フレミングさんなどです。
紹介した人たち含め、そこに参加している人たちはみんなジーパンにTシャツといったラフなスタイル。そしてビール片手に外国人と英語で議論していたのです。その雰囲気がすごく衝撃的でした。
みんながみんな「あたらしい金融の形を作るのだ」と非常にエネルギーに満ち溢れていました。若い世代も多かったです。そこで私は、このような人たちが金融業界にイノベーションを起こすのだと確信するようになりました。今までいろんな産業で起きてきたデジタルイノベーションの変化が、やっと金融業界にも入ってきたと確信しました。その変化はもっと早くに訪れるべきだったとも強く感じました。
そんな方々の影響を受けて私は日銀を辞めてマネーフォワードで働こうと決心したのです。
—当時、神田さんはなぜ金融業界は楽しいと思えていなかったのでしょうか?
もちろん、私がいた金融業界は、非常に重要な役割を担っていたし、大きな仕事で達成感や満足感を得ることはありました。しかし、純粋に一緒にいるだけで何か新しいことが起きそうとか、そういうワクワク感を感じることはほとんどなかったと思います。
1994年から2017年にかけての世界・日本経済の変化について
−日本銀行で勤務した23年間の中で何が最も印象に残っていますか?
バブル崩壊後の都市銀行の破綻ですね。
私の大学の友人の多くは都市銀行に就職しました。そんな友人たちの中には、自分には合わないと思っていた銀行に、後の統合の結果で働くことになった人もいます。私も就職活動では都市銀行も受けていたので、同じような状況になっていた可能性もあります。私が就職活動をしている時は、みんな都市銀行に入ったら一生安泰だと思って就職していましたからね。
そもそも、安定を求めて日銀に入ったわけではありませんでした。日本の経済・金融に貢献できる仕事がしたいと思い、日銀に入行したのです。都銀のそのような変遷を目の当たりにすると、時代を先読みし、自らも変化する力が非常に重要だとより意識するようになりましたね。
日本銀行員としてのリーマンショック後3カ月の壮絶な日常
—神田さんが日銀時代に、一番やりがいを感じていた仕事は何ですか?
今振り返ると、リーマンショック後の3ヶ月間の金融機関モニタリングの仕事に、最もやりがいを感じました。
リーマンショックの直後から外国銀行はどこがいつ資金繰り破綻してもおかしくないという市場の雰囲気が半年ほど続きました。私は日銀で外国銀行の資金繰りを担当する部署にいました。その時期は、朝起きてニュースを見るのが怖かったです。連日のように銀行の経営危機のニュースが流れていたからです。
毎朝ニュースを見る、そして銀行破綻のニュースがないことにホッとして、やっと1日の仕事が始められるといった状況でした。そして出社してからは、外国銀行の担当者とずっと電話でやり取りして、「資金繰り大丈夫ですか?当局とちゃんと対話していますか?」など、コミュニケーションを取り続けていました。
当時の外国銀行とのやりとりは、もっぱら電話でした。毎日のように外国銀行の資金繰りを確認し、色々な銀行から数千億円規模の資金供給の要請を受け、審査をした上で承認していました。
当時、もし私が、何かオペレーションを一つ間違えたり、電話で言い間違い、聞き間違いがあったりしたら、そこから全世界の金融が止まる可能性もあったと言っても過言ではありません。
当時はそれぞれの銀行で危機感の持ち方が全然違ったので、コミュニケーションの取り方はすごく難しかったです。市場参加者が疑心暗鬼で、何かあれば市場から資金が一斉に引き上げられるような状況でも、各外国銀行の資金繰り担当者の間には温度差がありました。
1つの銀行でも、資金繰りを失敗したら、様々な銀行に莫大な影響が出る危険な状態であることをちゃんと把握していない銀行もたくさんありました。
私の役割としては、そんな銀行と丁寧にコミュニケーションし、危機感を共有することでした。そして、銀行側にはいつも、「何か気になることがあったらすぐに言ってください」と伝えていました。それで距離感を縮めていき、同じ温度感で話せるようにしていきました。最終的には地道なコミュニケーションの結果、アメリカ、欧州、日本の当局がグローバルに連携を取れるようになりました。
リーマンショック後の3ヶ月間は、そういう危機感の中で全世界の金融当局者が働いていたと思います。そして、その年の年末を越えたあたりでやっとマーケットの雰囲気とレートが落ち着き始めました。当時、年が明けてから少しずつ危機が後退していくように感じたのを覚えています。
私にとって本当に大変な経験でしたが、今考えると長い日銀の業務の中でも、一番充実してやりがいを感じていた時期だと思います。まさにその仕事を通じて私は経済・金融全体に対して貢献できていると実感していました。
(つづく)
→つづきは「既存の金融システムと仮想通貨はどのように新しい金融を作るのか?マネーフォワードフィナンシャル神田潤一の挑戦(後編)」はこちら
編集:竹田匡宏・設楽悠介