「初めてインターネットに触れた時と同じ感覚」ビットバンクCEO廣末紀之がビットコインに惚れ込んだ理由/廣末紀之インタビュー(1)

未熟な自分を叩き直すために新卒で野村證券に入社

−現在の仮想通貨取引所事業に至るまで、廣末さんはどのようなキャリアを歩まれてきたのでしょうか? 

はじめのキャリアは新卒で入社した野村證券です。

学生時代は早稲田大学に在学していたのですが、私は勉強がそれほどできるわけではなかったんです。だから就職活動をはじめたときも、正直いって自己評価はそれほど高くありませんでした。正直当時はアルバイトや自分でビジネスなどをして小遣いを稼いで、勉強せず遊びまくっていました。

だからこそ社会人になったらちゃんとしたビジネスパーソンにになりたいという想いが強かったです。そこで自分を鍛えるためにも、一番厳しい場所で働きたいと思ってました。

当時リクルートと野村證券の2社が1番厳しいと言われていたのですが、将来自分でビジネスをやるなら金融はわかっていた方がいいと思い、新卒の就職先は野村證券を選びました。とにかく、ダメな自分を鍛え直したいという思いで選びましたね。

当時の金融システムは間接金融に偏重していた一方、世界では直接金融の流れが強くなっていました。そんな中で野村証券は直接金融の仕事をしていた点も選んだ理由ではあります。

−学生時代にされていたビジネスでかなりお金を稼いでいたと思うのですが、それにもかかわらず自分の能力を低いと思えた理由は何だったんでしょうか?

稼いだお金がその人の価値ではありませんからね。そこは切り分けて客観的自分の能力を評価していただけです。

もちろん、生活に必要なお金を稼ぐという視点でいえば、十分な能力だったかもしれませんが、ちゃんとしたビジネスパーソンになるのであれば、その程度では全然ダメだと思っていました。

ただひたすらビジネスパーソンとしての基礎を叩き込みたいモチベーションで社会人になりました。

質がなかったら量を増やして勝負

−野村證券ではどのような職種を経験されたのですか?

リテール営業や営業企画、さらに人事などを8年間で経験しました。
形のないものを売らないといけないという最初のリテール営業が特に一番大変でした。
その仕事には理論武装が必要なのはもちろん、商品となるのは売る人の信用や好感度などの人間力なので、非常にハードでした。

しかし、当時の同期500人の中で営業のトップを取ることができました。

−当時はどのようなことを意識したのでしょうか?

質がなかったので、とにかく量をこなすということです
野村證券での最初の仕事は、お客さんも商品もない状況でのスタートでした。0から全部作らなければならず、自分には電話とカバンと名刺だけしかありませんでした。まさに自分で商売を作ってこい、といった感じです。

成果というのは「質×量」なので、質が低いなら量を増やさなければいけません。量というのはお客さんの数なので、アタック数を増やさなければいけないと思っていました。自分の中でどれだけの新規潜在顧客にアタックするかを決めて、それを土日も休まず行ってました。

他の同期が土日に働かないとすると、私が土日で働くだけで7日(廣末さんの勤務日数)/5(同期の勤務日数)=1.4倍の量をできることになります。短期的な目線で見るとあまり変化は感じられませんが、継続して積み重ねて行くと、複利の法則で、3年間もやれば誰も追いつけなくなります。

質が低い新卒の当時の私みたいな人にでも、戦略を立てて量をこなすことができれば成果が出せることを学びました。

私の戦略は特に目新しいことでもありません。大事なのはやっぱり、当たり前のことを「誠実に」「懸命に」「継続して」やることだと思います。

インターネットの時代が来ると直感し、GMOインターネットへ

−野村證券という金融分野からインターネット分野に入ったきっかけはなんだったのでしょうか

情報の時代が来ると直感したからです。

証券マンは、将来の株価予想などを元に、この先どういった社会・経済になるのか、どんな会社が伸びるか、ということを常に考えます。

アルビン・トフラーの「第三の波」という本を読んで「工業化の次の時代は情報の時代が来る」と書いてありましたが、当時は私はあまりピンときていませんでした。

しかし、証券マン時代の95年に初めにwindows95でインターネットに触れた時「これが情報の時代か」と直感しました。インターネットによって情報が流通していく中で、これは大きく社会が変わると感じたのです。

通信が普及する前の時代、一つの大きな経営リソースとしても数えられていた「情報」にアクセスするのが難しかった当時、情報が集まる企業すなわち新聞・ラジオ・テレビ・雑誌などのマスコミ企業が人気でした。

しかしインターネットの出現によって、「誰でも」自由に情報の収集と発信が可能になると、「中央集権的に」情報を収集し、発信するマスメディアの価値は相対的に下がるだろうと思っていました

このような社会の変革を起こすかもしれないインターネットには未来があるという考え、インターネット業界のど真ん中でビジネスをしたいと思いました。

GMOインターネットに入社するきっかけは、野村證券時代に仲の良かった友人がGMOインターネットのCFOでしたので、その友人に熊谷正寿社長を紹介してもらったことです。その時熊谷さんとお話しして、マスメディアではない新しいメディアが伸びるだろうという話で盛り上がり、また熊谷さんの人間的な魅力も感じ、すぐに入社を決めました。

GMOインターネットではスモールビジネス向けの事業を熊谷さんが統括し、メディア事業を私が統括し、インターネットビジネス全般について学びました。熊谷さんには事業だけでなく経営についても多くのことを教わり、おかげで実践的な力をつけることができました。その後、GMOインターネットを退職することになりますが、熊谷さんは今でもとても尊敬しています。

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「電気自動車」の衝撃、そしてカーシェア事業の立ち上げ

その後は知人がやっている、スマートフォンアプリ・オンラインゲームの開発企業のガーラという会社の経営再建を2年間担当しました。そしてその任務を全うしたタイミングの2008年に「車を電気で動かした奴がいるらしい」という話を聞きました。

イーロンマスクがCEOに就く前のテスラの話でした。私はそれに衝撃を受け、自動車の「電気化」や「通信化」という大きなトレンドがこれから来るはずだと思いました。

そんな中、ネットエイジの西川潔さんと現ヤフーの小澤隆生さんと一緒に、電気自動車の製造販売を行うことを目的とする企画会社であるサステナ・エレクトリック・ヴィークルという会社を作りました。

電気自動車の時代が来た場合、自動車が基幹産業である日本では電気自動車の専業会社が必要だろうと思ったのが理由です。

そしてイギリスの自動車メーカーや韓国のバッテリー会社などに視察に行き、どのような形でやれば電気自動車を作れるかというのは分かったのですが、いざ製造しようとする時には、最低100台のロットで30億円くらいのお金がないとできないということが判明しました。

さらに、その資金調達が厳しいと思っていた頃にリーマン・ショックが発生し、資金調達の環境が最悪の状況となってしまいました。特にベンチャー企業としてやる私たちにとっては負荷が大きく、残念ながらその事業を断念せざるを得ませんでした。

そこで、チャレンジしていた「自動車の電気化」が無理であれば「自動車の通信化」をテーマに事業をしようと思い、世田谷の三軒茶屋でコミューカというブランドに変えてカーシェア事業を始めました。

車が通信化する時代だから、細かい単位で課金ができるはずだと思い、10分単位300円から乗れるお気軽レンタカーというキャッチコピーで出したところ、当時かなり話題になりました。

しかし、人気になったタイミングで、恐れていたパーク24のカーシェアリングへの参入が始まったんです。

事業構造的に、土地を持っている事業者に私たちが勝てるはずもなく、万が一、パーク24のような土地を持っている企業が参入してくる場合は、即、撤退しようと事業開始前から決めていました。パーク24の参入をもって、「もはや勝負あり」と考え、三井物産に事業売却をして、この事業にも終止符を打ちました。

インターネットを触れた時と同じ感動を覚え、ビットコインに没頭

ビットコインとの出会いはいつ頃だったのですか?

2012年頃です。日頃からインターネットビジネスや経営に携わっているので、常に新しい技術や社会動向に関心があるのですが、ある時、偶然、ビットコインと言う単語を目にしました。
それまでもデジタルマネーのようなものは出てきては消えて行っていたので、ビットコインもそのような感じだろうとはじめは思っていました。

とはいえ、どんな技術でも、ある程度の理解が必要なので、ビットコインの構造を調べていたら、「ブロックチェーン」「PoW」「マイニング」などの知らない言葉が出てきました。調べても文献が出てこず、一番語られているのがアメリカ版2ちゃんの「Reddit」というサイトで、そこのスレッドをチェックして勉強しました。

ビットコインの全体像が見えたのは勉強し始めて半年くらい経った時だったのですが、感激しましたね。「お金のインターネット」の原型だと感じたんです。もしこの仕組みがきちっと動くと証明されれば、銀行や証券などの中間業者が必要なくなり、大変革が起こると直感しました。

まさに、インターネットに触れた時と同じような感動を覚えたんです

それ以来どっぷりとビットコインにハマって、関連情報を追いかけて人に会い始めました。当時、世界最大のビットコイン取引所マウントゴックスが渋谷にあった理由で、渋谷にビットコインマニアが集う、ほとんどが外国人のコミュニティがありました。マウントゴックスのCEOだったマーク・カルプレス、ビットコイン関連スタートアップのエンジェル投資家であるロジャー・バー、そしてBinance CEOのCZ(Changpeng Zhao)などがいました。

彼らのコミュニティに私も入り浸っていて、1杯のビールを6時間かけて飲みながら「ビットコインはすごいよね」と語り合っていました。

その場所は、以前インターネット前夜に堀江さん、三木谷さん、熊谷さんなどが渋谷に集まってインターネットについて語り合っていた「ビットバレー」の再来のような感じがしました

そのような熱狂の中、2014年にマークが率いるマウントゴックスが大事故を起こしてしまいます。世間は大騒動になり、社会の風潮が「ビットコインは詐欺だ」という方向に流れて行きました。

しかし私はビットコインの仕組みを理解していて、この事件はビットコインのせいではないということも理解していました。むしろ、そのような混乱の最中でも、正確に動くブロックチェーンをみて、ビットコインのネットワークの強さをこの事件でさらに確信したくらいです。

スタートアップ的な視点でいうと、「他の人が知らない真実を知っている」状態で、大チャンスでした。超優良株が、風評で叩き売られている状態ですね。みんなビットコインのポテンシャルや技術の中身を理解していないし、私は金融業界での一定の経験があるので、これは自分にとっては千載一遇のチャンスだと思いました。

2014年5月にビットコインバンク構想というものを作って、仮想通貨関連事業を主業とする「ビットバンク」を設立しました。

あれから4年間やってきて、認知がだいぶ進み、情報の非対称性が埋まってきたと思います。ただ、個人的にはこの分野にまだまだ伸び代はあると思っています。

(つづく)

つづきのインタビュー第2回はこちら「本当の革命はパブリックな仮想通貨」ビットバンクCEO廣末紀之が見据える仮想通貨の将来/廣末紀之インタビュー(2)

(編集:飯田諒

この記事の著者・インタビューイ

廣末 紀之

ビットバンク株式会社 代表取締役社長 執行役員 CEO 野村證券にてキャリアをスタートさせ、その後スタートアップ経営に長年携わる。 GMOインターネット株式会社常務取締役、株式会社ガーラ代表取締役、コミューカ株式会社代表取締役などを歴任。 その後、ビットバンクを創業。